星の王子さま~LE PETIT PRINCE~

by Antoine de Saint-Exupery

 

 ぼくは、こうして、もう一つ、たいそうだいじなことを知りました。

それは、王子さまのふるさとの星が、やっと家くらいの大きさだということでした。

 といったって、ぼくは、たいしておどろきはしません。

地球とか、木星とか、火星とか、金星とかいったように、いろんな名まえのついてる大きな星のほかにも、なん百という星があって、それが、時には、望遠鏡でも、なかなか見えないほど小さいことを、ぼくはよく知っていたからです。

天文学者は、そういう星を一つ見つけると、それに番号をつけて、名まえにします。

たとえば、小惑星325番といったふうにです。

 

 

 ぼくは、王子さまのふるさとの星は、小惑星B-612番だと思っているのですが、そう思うのには、ちゃんとしたわけがあります。

その星は、1909年に、トルコのある天文学者が、望遠鏡で、一度見たきりの星なのです。

 

 そこで、その天文学者は、万国天文学会議で、じぶんが発見した星について、堂々と証明しました。

 

 

 ところが、着てる服が服だというので、だれも、その天文学者のいうことをほんとにしませんでした。

おとなというものは、そんなものです。

 

 さいわい、B-612番の星の評判を傷つけまいというので、トルコのある王さまが、ヨーロッパ風の服を着ないと死刑にするというおふれをくだしました。

そこで、その天文学者は、1920年に、たいそうりっぱな服を着て、証明をしなおしました。

 

すると、こんどは、みんなが天文学者のいうことをうけいれました。

 

 ぼくがこんなふうに、B-612番の星の話をして、その番号までもち出すというのも、じつはおとなの人たちがよくないからです。

おとなというものは、数学がすきです。新しくできた友だちのはなしをするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。

<どんな声の人?> とか、 <どんな遊びが好き?> とか、 <チョウの採集をする人?> とかいうようなことは、てんできかずに、 <その人、いくつ?> とか、 <きょうだいは、なん人いますか> とか、 <目方はどのくらい?> とか、 <おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか> とかいうようなことを、きくのです。

そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです。

 

 おとなの人たちに

<桃色のレンガでできていて、窓にジェラニュウムの鉢がおいてあって、屋根の上にハトのいる、きれいな家を見たよ・・・・・・>

といったところで、どうもピンとこないでしょう。

おとなの人たちには <十万フランの家を見た> といわなくてはいけないのです。

すると、おとなたちは、とんきょうな声をだして、 <なんてりっぱな家だろう> というのです。

 

 そんなわけですから、

<王子さまは、ほんとにすてきな人だった。にこにこしていた。ヒツジをほしがっていた。それが王子さまがこの世にいた証拠だ>

といってみたり、

<ある人がヒツジをほしがっている。それが、その人のこの世にいる証拠だ>などといったら、

おとなたちは、あきれた顔をして、 <ふん、きみは子どもだな> というでしょう。

だけれど、王子さまのふるさとの星は、B-612番の星だといえば、おとなの人は、 <なるほど> といった顔をして、それきり、なにもきかなくなるのです。

 

おとなの人というものは、そんなものです。

わるく思ってはいけません。子どもは、おとなの人を、うんと大目に見てやらなくてはいけないのです。

 

 だけれど、ぼくたちには、ものそのもの、ことそのことが、たいせつですから、もちろん、番号なんか、どうでもいいのです。

ぼくは、この話を、おとぎ話みたいに、はじめたかったのです。

そして、こんなふうに話したかったのです。

 

「むかし、むかし、ひとりの王子さまがおりました。

その王子さまは、じぶんより、ほんのちょっと大きい星を家にしていました。

そしてお友だちをひとり、ほしがっていらっしゃいました・・・・・・」

 

 こうすると、ものそのもの、ことそのことをたいせつにする人には、話がもっともっとほんとうらしくなったでしょうに。

 

 というのは、ぼくは、この本を、寝そべったりなんかして、読んでもらいたくないからです。

ぼくは、王子さまとの思い出を話すのが、ほんとにかなしいのです。

あの友だちがヒツジをつれて、どこかへいってしまってから、もう六年にもなります。

あの友だちのことを、いま、ここにこうして書くのは、あの友だちを忘れないためなのです。

 

友だちを忘れるというのは、かなしいことです。

だれもが、友だちらしい友だちをもっているわけではありません。

それに、ぼくも、そのうち、数学しかおもしろがらないおとなと、同じ人間になるかもしれません。

 

 

 

それだからこそ、ぼくは、えのぐ箱とエンピツを買ったのです。

六つのとき、ウワバミの内がわと外がわをかいたきりで、ほかには、なんの絵もかいたことのないぼくが、いま、この年になって、また絵をかくのは、なかなかのことです。

もちろん、ぼくは、いろんな人たちの肖像を、できるだけ本物に近く、かくようにしましょう。

が、うまくいくかどうかということになると、どうも自信がもてません。

一つの絵は、うまくかけても、ほかのは、似ても似つかないものになるのです。

 

背のたかさが、またすこしちがっています。

王子さまは、あるところでは大きすぎたり、あるところでは小さすぎたりしています。

それから、着物の色も、これではどうかと思ったりします。

そうなると、ぼくは、闇のなかをさぐるようにして、どうにかこうにか、それらしいものにするほかはありません。

 

さいごに、ぼくは、もっとたいせつなことで、見当ちがいしそうです。

でも、その点は、なんとか大目に見ていただきましょう。

ぼくの友だちの王子さまは、くどくどと、説明してくれなかったのです。

どうかすると、ぼくを、じぶんとおなじような人間だと思っていたのかもしれません。

 

けれど、ぼくには、あいにく、箱の中のヒツジを見る目がありません。

ぼくもどうやら、おとなじみているのかもしれません。年とってしまったにちがいありません。

 

http://homepage2.nifty.com/tomatoworld1/prince4.htm

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